江戸時代の彫り師
現代のメディアでは、刺青を施す者を「彫り師」と言いますが、江戸時代では「文身師」と言われていました。
江戸時代後期、文化・文政(1800年初め~)の頃、江戸に政治や文化などが集まり江戸の町が発達し、また、芝居・小説・歌舞伎などといった娯楽も盛んになったことで、江戸の町が華やかになっていきます。
そんな中、当時の人気浮世絵師の一人「歌川国芳」が発表した「通俗水滸伝豪傑百八人」という浮世絵が江戸の町で流行します。
これは中国で書かれた有名な小説「水滸伝」に登場する豪傑たちを視覚化した、とても力強く男らしい絵が描かれた作品であり、江戸の庶民たちを魅了しました。
出典:CINRA.NET
この水滸伝シリーズの絵柄は、和彫りが好きな人ならご存知の人も多いのではないでしょうか。
そう、背中一面に勇ましい水滸伝に登場する豪傑たちをいれるのが、この時から流行り出したのです。水滸伝シリーズは和彫りを代表する図柄ジャンルの一つです。
この頃から庶民の間で刺青ブームが起こり、墨をいれることを専門にする文身師(彫り師)が生まれていくのです。
刺青を専門に彫る職人は、もともとは浮世絵など版木彫りをしていた職人が多かったと言われています。
出典:江戸の職人その技と粋な暮らし
鳶職人と刺青の関係は?
江戸時代には”職人”と呼ばれる職業がとても多かったと言われています。
その中でも「鳶職」は江戸の町でも目立つ存在だったと言われています。
理由の一つに、江戸時代に町火消し制度が発足されると、彼ら鳶職人がその役を担っていくからです。
「火事と喧嘩は江戸の華」
また、喧嘩の仲裁役なども行っていた鳶職人は、頻繁に起こる火事や喧嘩のたびに現れるので、町人間からとても人気を得たと言われています。
また、鳶職以外にも大工、左官、駕籠かきといった職人たちが、自分の肌にいれた刺青を見せ合い、勇み肌を競い、刺青ブームを巻き起こすのです。
図柄は水滸伝のヒーロー、龍や倶利迦羅紋紋(くりからもんもん)などが職人たちの間で人気があった言われています。
職人同士が勇み肌を競い合ったことや、自分の生涯の仕事の覚悟を決めるために刺青を彫っていたのです。このような時代背景から、職人たちの間で刺青に対する独自の美学を形成されていくのです。
そして、職人の刺青保有率が高いことから、職人=刺青のイメージが定着したのです。
刺青をいれている職人が多いのはなぜ?鳶職人と彫り師についてのまとめ
日本の刺青文化を調べると縄文時代までさかのぼります。
刑罰の一つとして行われた「入れ墨」や恋人同士で行う「入れぼくろ」など、色々な時代背景を受け継承され現代に受け継がれているのです。
日本の刺青は、見る人によって様々な思いを掻き立てる、とても独特なカルチャーの一つです。
時に人々を魅了するモノであったり、時にネガティブなイメージを持たれたり、それは様々です。
しかし、現代になっても職人たちの間で刺青をいれている人は多く、これから10年、50年、100年経っても職人たちの間では独自の刺青文化が受け継がれ、また美徳の一つとして残るのでしょう。
この先、日本の刺青に対する世論や価値観は、一体どのように変化しているのでしょうか?
とても楽しみですね。
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